

山口和枝先生を深堀りインタビュー!
2020年のコロナ禍をきっかけにレタグラフィー認定講師資格を取得。その後も、デジタルレタグラフィー認定講師、カッパーレタグラフィー認定講師、和心レタグラフィー認定講師と数々の資格を重ね、表現の幅を広げてきた山口和枝さん。
レタグラフィーコラボコンクールでは、2024年・2025年と2年連続で最優秀賞を受賞するなど、協会講師の中でも注目を集めている存在である。
最優秀賞の発表時には、「私にとって特別な作品だったので本当に嬉しい」と涙を浮かべた和枝さん。2025年に最愛の母との別れを経験し、「母が生きた証を自分の手で残したい」という想いを込めて制作された、特別な作品であった。
そんな”山口和枝さん”とは、どんな人なのか。深堀りして聞いてみました。
「レタグラフィーコラボコンクール2025」デジタルレタグラフィー部門最優秀賞受賞


Interview
「こんなに辛いと思わなかった」母との別れ。同世代の女性に寄り添いたい
「いい子」でいなければならなかった幼少期
私は二人兄妹の末っ子で、4つ上に兄がいます。兄を見て「これはしたらあかんな」っていうのを学ぶ、いわゆる”下の子あるある”ですよね。だから自然と「いい子でいなければいけない」と思って育ちました。
両親は共働きで、いわゆるカギっ子。一人で過ごす時間が多かったんですが、寂しくはなかったんです。全然寂しくなかった。一人の時間がむしろ好きでした。
でもね、それは今になって分かることなんですけど ―― 本当は、甘えたかったんだと思います。
当時はそんな気持ちに気づいてもいなかった。母がいなくても寂しいと思わなかった。自由でしたから。でもそれは、甘えたい気持ちに蓋をしていただけだったんです。
「全部決められた」と感じた10代
うちの両親は、昔気質の人でした。冒険をさせてくれない。毎日同じでいい、という感じの家庭です。
高校受験のとき、私には行きたい学校がありました。でも私立だったので、家庭の事情で絶対に行かせてもらえる環境じゃなかった。「行きたい」と言ったけど、もちろんノー。
じゃあ公立ならここに行きたい、というところがあったんですが、担任の先生に「五分五分」と言われて。もし落ちたら、行きたくない私立に行くことになる。ランクを一つ落としなさいと言われたんですが、そこの制服が、行きたかった学校とよく似たセーラー服で。希望校に行けないのに、似た制服を着るのは絶対に嫌だったんです。
だから私は二つ下げました。
母はそれが嫌だったみたいで、「一つ下のところに行きなさいよ」と言ったんです。でも私は「そもそも行きたいところにチャレンジさせてくれへんから、こんなことになってるんやん」って思ったんです。
結局、私は意地を通して二つ下げた学校を受けました。そして、結果としては、そこでの3年間はすごく楽しかったんです。何よりそこで、今の主人と出会いましたし。当時は付き合ってなかったんですけどね。
結果的には楽しめた。でも「行きたいところにチャレンジさせてもらえなかった」ということは、長い間、私のトラウマでもありました。
子どもたちには、自分で選ばせたかった
だからこそ、自分の子どもたちには同じ思いをさせたくなかったんです。長女が行きたい高校があったんですが、学力的にはちょっと難しい。でも主人と相談して、
「ここで受けさせへんかったら、一生のしこりが残る」と。私立に受かることを条件に、受験させました。彼女は最後にものすごく勉強して、合格しました。次女も同じ高校に行きました。
一番下の息子は、上の二人と同じ学校に行きたいと言ったんですが、誰が見ても厳しい状況でした。それでも受けさせました。結果は不合格。でも本人は「後悔はない」と言っています。あの高校受験の経験があったからこそ、子どもたちにも「チャレンジさせる」「自分で決めさせる」ということができた。それは私にとって、大きな学びでした。
進学も許されなかった、狭い世界
高校に入って、また壁がありました。兄が高校卒業後に就職していたので、「兄が大学に行ってないのに、女の子が行く必要はない」と。
高1の三者面談で、母がはっきり先生に言ったんです。「受験はさせませんから」と。
奨学金をもらって行く、なんて知識も決意もなかった。だから、従うしかなかった。「卒業さえすればいいんだね」と、受験勉強はしませんでした。
社会人になるまで、お泊まりもダメでした。友達の家に泊まることすら許されなくて、みんなが泊まりで集まっても、私だけ一旦家に帰って、次の日また行くみたいな。それを破ったことは一度もないんです。
今の私を知ってる人は想像できないかもしれませんけどね。でも当時はそれが普通だと思っていたし、反抗する気もなかった。小さな世界で生きていたから、そんなもんやと思っていたんです。
義母との出会いで広がった世界
結婚して、主人のお母さんと出会ったことが、大きな転機でした。
特別な人じゃないんです。田舎から出てきて、ずっと主婦をしてきた普通の人。でも、私の母とは全然違った。
私の両親は「お互いが別々に生きている」という感じの夫婦でした。家族でどこかに出かけることもほとんどなかった。でも主人の家は、家族単位で動く。こんな家族の形があるんだ、と思いました。
長女を出産して実家に帰ったとき、母乳が出なくて不安で仕方がなかった。育児書に書いてある通りにいかないことが怖くて、ノイローゼになりかけていたと思います。
母に「ミルクを足しなさい」と言われました。きっと心配しての言葉だったと思います。
でも当時の私は、その一言で自分を否定されたような気持ちになってしまい、泣いて主人に電話しました。「早く帰りたい」って。義母はそんなとき、すぐに会いに来てくれたんです。私の気持ちを尊重してくれた。自分の母しか知らなかった私にとって、それは衝撃的なことでした。
推し活は、母譲りです
実は、推し活の歴史は幼少期からなんです。郷ひろみに始まり田原俊彦、近藤真彦、野村義男のたのきんトリオにシブがき隊……。常にファンがいました。
これは完全に母の影響です。母は美空ひばりが大好きで、私の名前は美空ひばりの本名「加藤和枝」の「和枝(かずえ)」からつけられました。字も全く一緒です。
ピクニックや公園で遊ぶような母ではなかったけれど、美空ひばりのコンサートや舞台には連れていってくれる人でした。家にはいつも歌謡曲がかかっていて。だから推し活のDNAは、100%母からの遺伝ですね。
子どもが生まれてからは、主人に「ドリカムだけは行かせてください」とお願いして、ドリカムのコンサートだけはずっと行き続けていました。
今は韓国バンドの推しがいて、日本での公演は全部追いかけたいくらいです。その遺伝は子どもたちにも引き継がれていて、全員推し活してます。「お母さんのせいでこうなった」って言われてますけどね(笑)。

レタグラフィーとの出会い
49歳のとき、子育てがちょっと一段落したタイミングで、レタグラフィーに出会いました。
きっかけはグルーデコの教室で、さなえ先生にお会いしたこと。レタグラフィーを習ったら、もっとさなえ先生に会えるかもしれない ―― 正直、それが大きかったと思います。でも体験会がすごく楽しくて、一気にハマりました。
ちょうどその頃、両親も近くに引っ越してきていて、介護も始まっていました。レタグラフィーは私にとって、自分を保てる大切な時間でした。あの時間がなければ、心に余裕を持てなかったかもしれません。
それと、以前、自己理解のセッションを受けたとき、「かずえさんは自分の人生を語っているのに、子どものことばかり書いている。子どもの人生を一緒に歩んでいますね」と言われてハッとしたんです。確かにそうだ、子離れできていなかった。
でもレタグラフィーが楽しすぎて、気づいたら自然と子離れできていました。超過保護だった私が「今お母さん練習してるから話しかけないで」って言ってるくらいに(笑)
いつの間にか子離れできていた。寂しいとかはなかったです。
最愛の母との別れ
去年、母が亡くなったんですが、正直、こんなに辛いと思わなかったんです。
母とは昔から喧嘩も多くて、決して相性が良いほうではありませんでした。特にここ数年は、認知症もひどくよく怒っていて、介護も大変で、本当に喧嘩ばかりしていました。
でも、母が入院してから、急に母の棘のようなものがとれた感覚があって。よく怒っていた母が、入院中は穏やかになったんです。そうすると私も素直になれて、そんな気持ちの状態で母の最期を迎えられました。
それもあって、こんなに辛いものなのかと、思い知りました。
母が亡くなった後、遺品を整理しようとしたんです。賃貸だからいつか片付けないといけないし、ゴミ袋に少しずつ入れていこうと。簡単にできると思っていました。でも3日目で辛くなってやめたんです。母のパジャマを捨てようとした瞬間、手が止まった。いまだに捨てていません。もっと淡々とできると思っていたので自分でも驚いています。
そしてようやく気づきました。ずっと蓋をしていた気持ちに。「ああ……私、お母さんに甘えたかったんだ」
母が亡くなってしばらくは、実家に向かいながら「どこ行ったの、お母さん」と思うことが何度もありました。
結局、最後まで子どもだったんだなって。いくつになっても。
母の存在を、作品に残したかった
<山口和枝さんのコンクール受賞作品> ※画像をタップでより詳しくご覧いただけます

主人のお母さんがかつて言っていたことがあります。お義父さんが亡くなったとき、「簡単に消されていく」と。戸籍からなくなり、健康保険の名簿からなくなり、手続きをすれば抹消されていく。当時はその言葉を100%理解できなかったけれど、今はよく分かります。こうやって、亡くなったら終わっていくんだなって。家族は覚えていても、世間的には。
だから「この人は存在していたんだよ」ということを自分の作品で残したかった。作品に母の生まれた日を入れて、顔も今まで隠して出していたけれど、今回は見てもらいたいと思いました。
自分の家には母の写真を飾りたくなかったんです。遺影のように飾って、お水を置いて……というのが嫌で。受け入れたくなかったから。だから私は家ではお線香もあげないんです。お水は供えますけど、「お母さんおはよう、水かえるで」みたいな感じで。死んだというよりも、そこにおるねっていう感覚で過ごしています。
介護する人に伝えたいこと
介護をしていると、終わりが見えません。終わりは、その人が亡くなるとき。だからそれを望んでしまう自分がいて、でもそんなこと言ったらいけないと思って、すごく苦しくなるんです。
私はたまたま自分で介護をしましたけど、時には第三者に頼ってもいいんじゃないかなと思います。うちの両親は頑固だったので、他人が家に入るのは嫌がりました。
介護していても、遊んでいいんですよ。自分の時間は取らないと、本当に潰れてしまう。“息抜き”と言った方がいいかもしれませんが、それは絶対に必要だと思っています。
今月末に東京にコンサートに行くのに、父をショートステイに入れるんですが、「かわいそうかな」「やめとこうかな」と思う瞬間もあるんです。でもそこで行かなかったら、後から父を恨んでしまうと思う。主人が「行ったらええやん」と背中を押してくれて、行かせてもらうことにしました。思っていても、いざ行動に移すときって、やっぱりちょっと辛いものがありますよね。

一歩踏み出したら、違う世界が見える
今、レタグラフィーを通じて全国に仲間がいます。コンサートで東京に行けば、関東のレタグラフィーの仲間にも会える。推し活もレタグラフィー仲間との交流も、3倍楽しくなりました。
私がこれから力を入れていきたいのは、同年代の女性たちに寄り添うことです。子離れができなくて不安を抱えているお母さん、介護で潰れそうになっている方。大丈夫だよ、自分の時間を持っていいんだよ、と伝えたい。
一歩踏み出すのって、すごく勇気がいることです。でも、一歩踏み出さないと何も始まらない。現状維持のまま。一回行ってみよう、一回やってみよう。そこで合わないと思ったらやめればいいし、もっとやりたいと思ったら先に進めばいい。
レタグラフィーの体験会に来てみるという一歩を踏み出したら、たとえレタグラフィーが合わなくても、違うことへの一歩が出やすくなるかもしれない。
何かがちょっと外れて、前に進めるかもしれない。

レタグラフィー認定講師 Harmony branch 山口和枝さん
聞き手:日本レタグラフィー協会代表 神馬友子
写真:本人提供
Thank you!
